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執筆者の写真ドラゴン1号

日本ワイン誕生の街こうふ

更新日:2020年6月19日

 今ではイギリスに輸出されるまでに発展した山梨ワインですが、明治4年(1871年)に広庭町(甲府市武田2丁目あたり)にあった「大翁院」の住職・「山田宥教」が副業として製造したのがその始まりです。  このことは、私のワインの先生である山梨県観光推進機構の「仲田道弘」理事長の著書「日本ワイン誕生考」に詳しく著されておりますが、それを教科書として話を進めます。


 山田がワインを醸造した歴史的背景として、1858年に横浜港が開港し、山下町に外国人居留区が作られました。すぐに貿易が盛んになり、ホテルやレストラン、劇場やバーなどが建設され、街は大きく発展していきました。

 甲州商人はいち早く横浜に進出し、「甲州屋忠右衛門」により貿易商社「甲州屋」が設立され、生糸をはじめ甲州の物産品が外国人相手に取引されました。  山田もたびたび横浜に足を運び、ワインやビールなどの「洋酒」にふれ、その醸造を志したものと考えられます。また、山田とともに横浜を訪れた造り酒屋「十一屋」の野口は、のちにビールの醸造に成功しますが、これは東日本で初めて造られたビールです。

 山田が初めてワイン醸造に成功した3年後となる明治七7年(1874年)には、八日町(城東通りの山梨交通中央2丁目バス停あたり)にあった「詫間酒造」において、当主「詫間憲久」と山田宥教の二人が醸造した国産のワインが日本ではじめて販売されました。山梨日日新聞の記者がワインを購入し、その記事が現存しています。  サントリーの創業者「鳥居信治郎」が大阪に「鳥居商店」を開業し、国産ワインの製造販売をはじめたのが1899年です。日本を代表する偉人である鳥居信治郎より、実に四半世紀、25年も早くワインの製造販売をスタートさせているのです。  ストレートに「すごいなー」と。


 しかし、本格的なワイン造りを目指した山田&詫間のワインは、なかなか日本人の口には合わず、販売不振が続き、やがて宅間酒造は廃業することとなります。

 いっぽう、サントリーは日本人の味覚や嗜好に合わせ、甘味の「赤玉ポートワイン」を製造し、大ヒット商品となりました。そして、この成功をステップに、ジャパニーズウィスキーへの挑戦につながっていきます。

 「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」

 日本初のワインとビール  江戸時代においても、徳川家の直轄地として文化の香り高かった甲府の街は、明治になってもとてもハイカラな街だったことが目に浮かびます。

   さらに、明治という新しい時代のスタートに、いち早く新しい事業に挑戦したフロンティアスピリット溢れる山田、詫間、そして野口という三人の青年。  「なー野口、ワシはワインをやるわー。おまんはビールをやれし」 横浜からの帰り道にこんな会話があったのかと。  

 この3人の青年を主人公に、若尾逸平や雨宮敬次郎といった偉人も登場する明治やまなしを舞台にした映画を作りたいですね。

(あとがき)  詫間は廃業後、東京へと転居してしまいますが、山田、野口は甲府におり、両家の現当主は偶然にも私の前職の同僚でした。そして、その会社の社長が山梨ワインの発展の火付け役になるのですが、それはまた別の機会に。  創成期のワインをイメージした一升瓶葡萄酒「トキを旅するワイン」は、山梨県庁1F「まるごとやまなし館」ほかで絶賛販売中です。

参考:仲田道弘著「日本ワイン誕生考」(2018年、山梨日日新聞社)

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